サラリーマン経営者は経営哲学を持て

最近、「サラリーマン経営者」という言葉をよく耳にするようになった。

サラリーマンが出世して役員にまで登り詰めたはいいが、いざ経営を担う立場になってもまだサラリーマン的マインドから抜けだせず、というか抜け出さねばという自覚すら無く、経営者に相応しい度量や人格が伴わない連中を卑下して使われることが多いように思う。

創業100年にもなる老舗名門企業の経営がおかしくなっている事例が多々あるが、経営陣がサラリーマン化し、経営が惰性で動いて実質的な舵取りが適切になされていないことが危機を招く主要な一因となる事例もあることだろう。はっきり言って、歴史のある会社ならば何でも前例を踏襲してその場その場で当たり障りのない判断をしていけば事業が進んでいるように見えるので、ちゃんと経営出来ているような錯覚を起こすのだろう。

サラリーマン経営者は社内の不正行為の横行を防止できないどころか、察知すら出来ず、そんな体制を変えねばなどと思いもつかない。更には、重大な投資判断に伴う責任を自覚せず、多大な投資が数年後に業績悪化をもたらしたとしても責任を取ることはないだろう。そもそも自分が責任を取るべきと認識しないだろう。

新卒で入社した時点ですでに上場されていて世にそこそこ知られた会社であれば、そこに長年勤めて上司から良い評価を得ることを最優先に考えて努力し、時にはえげつない手段を使ってでもライバルを蹴散らした結果、手に入れた地位は最終到達点であり、ゴールである。報酬と地位を今までの功績へのご褒美だと考えてしまうのだろう。

創業者の起業精神など、もはや受け継がれることは難しい。もちろん語り継がれる逸話は知識として知ってはいるだろうが、白黒写真しか残っていない過去の遺物としか捉えられないだろう。

経営理念とか社長方針などは必ず何らかの前例があるので、それを元に改善なり踏襲して出せばよい。でも、経営哲学は本人の魂でしか語れない。

サラリーマン経営者には、大抵、経営哲学がない。社内で上司から優秀と認められることに長けた人は自分の魂を無色透明にしてあることが多いのではないか。

魂があると、それが良かれ悪しかれ、会社の中では上とぶつかってしまうことが多いだろう。出世したいサラリーマンにとってはマイナスだ。上とぶつかっても出世するには、本人だけでなく「上」にもそれなりの度量が必要だ。年月が経てば、組織の中で段々「上」になる程そんな度量は薄れてゆくのが自然だろう。

名選手、必ずしも名監督ならず。経営哲学の無い経営者が舵取りする会社は、いずれ迷走することになる。どうすれば経営者らしい経営者をアタマに置くことが出来るのか、困ったものである。