企業のトップは聖職である

ダイヤモンドオンラインに、「出光と創業家の法廷闘争は今後の経営に良い影響を及ぼす」という記事があった。牛島総合法律事務所の牛島信弁護士へのインタビューで構成されている。牛島弁護士は、「大企業のトップは皆聖人たるべく運命づけられている方々」であると述べている。

また、社長の給料を増やせば世の中が良くなるという考え方を「軽薄」と一蹴。社長になった人が従業員を切って、利益を上げて、「株価も上がったからもっと給料を払え」と言い出す危険性を指摘する。いかにもありそうだ。

”組織を動かすというのは、能力があるだけではなく、組織の人々から信頼され尊敬されて、「この人のために頑張ろう」と思ってもらえることによって初めてできることです。だから企業のトップは聖職なのです”

という言葉に深く納得する。

また、日経ビジネスオンラインには、あるベンチャー企業の若手社長がヤマト運輸の元会長小倉昌男氏の経営哲学に感銘を受けたという記事もあった。若社長は、「経営とは自分の頭で考えるもの、その考えるという姿勢が大切である」という小倉氏の言葉が深く刺さったという。また若社長は、「何のためにこの事業をやるんだということも、小倉さんは考え抜いて、自分の頭で整理し、それを社員に伝えていた」とも述べている。

 

企業経営者の資質って、一体何だろう。

創業から100年も経つと、創業者の影は社内で全く消えてしまい、創業の精神など、上っ面だけのものになる。

内部昇格で就任した社長は、新入社員時代から会社は上場済みで安定した事業基盤が出来ているから(むしろ、そういう会社を選んで入社してきたわけで)起業はもちろんIPOも経験がなく、理念の実現のために金策に走るなどする必要もなかった。そもそも理念など持ち合わせていない。

長年、社内で自分に火の粉が降りかからないように上手に振る舞い、社内調整を上手くやり、ヤバイ秘密を共有することで上層部の信頼を勝ち取り、引き上げてもらって最終的にトップの地位を獲得した人間に、果たして聖職が務まるだろうか。組織の人々から信頼され尊敬され、この人のために頑張ろうという気持ちを醸成できる社長の資質が伴うだろうか。
創業者の理念に惹かれ、志を同じくする同士が集まる会社ならば集団のパワーが発揮されそうで良いが、理念のない経営者に惹かれる社員などいるわけが無い。

結局は、人間力