「働き方改革」は社員の「多様性」に如何に対応できるかが問われている

私が勤務する会社でも、本部のお偉いさんが期初のイベントで「働き方改革」をテーマに議論する場を設けていたが、その後は早くも立ち消えかと思えるほどに何も聞こえなくなってきた。予想どおりである。

働き方改革と言うと、電通の事件などで長時間労働是正が改革の課題と見なされる場合が多いと思うが、労働時間の短縮はそれが相応しい人において実現すべきであり、そうでない人はそれぞれ別の相応しい手段で改革しなければならない。

改革の目的は企業全体の生産性の向上であり、他社との競合に勝つことであり、ひいては日本の産業全体において国際競争力を上げるためである。それを実現するには社員全員を同じ枠組みで括るわけにはいかないということだろう。

労働時間にしても、事情があって短時間しか出社できない人がいる。一方で、出世のためなら徹夜も厭わないという人もいるはずである。心身の健康が管理できるのであれば、仕事への情熱に燃える者には上限時間など気にせず思いっきり仕事に没頭できる制度にすべきであり、36協定や裁量労働制などの制度も改めて見直すべきだろう。

昭和の時代、全社員が決められた始業時間に出社し、全員でラジオ体操をして、朝礼をして、一斉に仕事をはじめるというスタイルがホワイトカラーでも当たり前だった。終わりの時間は一応チャイムがなるものの、さっさと帰るのは庶務担の女子社員だけで(彼女らにとって会社は結婚までの腰掛け)、普通に働く人は毎日全員が9時か10時までサービス残業が当たり前だった。

要するに、会社は全社員に滅私奉公を求め、仕事に全精力を注ぎ込ませ、競わせて勝ち上がった者を重用することで成長につなげてきた。女性は(元々会社を腰掛けとは思ってなくても)ほとんどが結婚か出産、又は旦那の海外転勤で競争から脱落し、専業主婦になるしかなかった。そんな女性が周りに多かった時代はそれが普通とされ、不満を比較的容易に封印できたのかもしれない。

しかし、少子高齢化、人口減少の時代になり、働き手から女性やシニアや滅私奉公しない人を排除するようでは、生産性向上など期待すべくもない。

もちろん、どんな事情があろうと仕事を片手間でいいかげんにやっていいというはずがない。真剣に全力で取り組むのは当たり前。でもそれは、仕事を何よりも優先させ会社に滅私奉公することとイコールではない。

もはや社員に一律に滅私奉公を求めてはいけない。一人ひとりの事情に鑑み、それぞれがそれぞれのやり方で最大の生産性を上げるにはどんな働き方をしてもらえればよいかを考え、それを許し、その環境を整える必要に迫られているのですよ、経営者の皆さん。

時短勤務、在宅勤務、副業・兼業の許可、深夜・早朝勤務のやり易さ、長期休職のしやすさと復帰後の公正な処遇、などなど、個々人がそれぞれ生産性を向上させるに重要なファクターは異なる。ある人には重要でなくても、別の人には極めて重要なものになる。会社全体で生産性をあげて競争力をつけるには、如何に多様な人材に対してタレントマネジメントできるかどうかが鍵である。